『罪と罰』
フョードル・ドストエフスキー
工藤精一郎 訳
(新潮文庫)
※ネタバレがあるのでご注意下さい
男子なら子供の頃、一度はマンガやアニメに出てくる女の子に恋した事があるだろう。
僕の場合、それは『ZZガンダム』のエル・ビアンノであり、『紅の豚』のフィオ・ピッコロだった。
しかし、小説の登場人物に惚れるというのはそう多くはないかと思う。小説の人物は顔が見えないからだ。
そんな中、僕が小説の登場人物に初めて恋したのが、『罪と罰』のソーニャ(ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ)である。
ドストエフスキーを一度でも読んだ方は分かるかと思うが、彼の文体というのはとても回りくどい。
が、それが物語に圧倒的な迫力とリアリティを生んでいる。
『罪と罰』は19世紀のロシアを舞台に、頭脳明晰だが、貧困に喘ぐ孤独な大学生ラスコーリニコフ(ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ)を主人公とする物語である。
彼は「一つの小さな罪悪は百の善行によって償われる」「選ばれた人間は世の為なら社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の思想を元に、町の強欲な高利貸しの老婆を殺害し、奪った金を世の為に役立てようとする。
しかし老婆を殺害する際、偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。
この予期せぬ第二の殺人によって、彼の心の中で罪の意識が次第に大きくなり、苦悩する。
やがて事件を捜査する予審判事ポルフィーリィから疑いをかけられ、彼は次第に追い詰められていく・・・
“もう一人の主人公”ソーニャ(ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ)もまた一家で貧困に苦しんでいる。
彼女の境遇と暮らしはラスコーリニコフのそれよりも悲惨である。そして彼女は家族を飢えから救う為、その身体を売っている。
初めて身体を売った夜、家に帰った彼女は家族に顔を合わせる事なく、ベッドに入りその痩身を震わせるのである。その描写はあまりにも痛々しい。
ラスコーリニコフは世を救う為、他人を犠牲にし、ソーニャは家族を救う為、自己を犠牲にしている。
ラスコーリニコフは自分よりもはるかに惨憺たる暮らしをしながら、徹底した自己犠牲に生きるソーニャに心打たれ、やがて彼女に自分の犯した罪を告白し、自首するのである。
最終的にラスコーリニコフはシベリアに流刑となり、ソーニャも彼を追って同地に向かう。そして・・・
以上が『罪と罰』の大まかなストーリーだ。
ところで、先ほどソーニャを“もう一人の主人公”と書いたが、これは『罪と罰』の読後、時を経てから感じたことであり、当初の位置づけは単なるヒロインだった。
『罪と罰』にはいくつか名場面があるが、そのうちの一つが、ラスコーリニコフがソーニャに新約聖書のエピソードの一つ、『ラザロの復活』を朗読させるシーンである。
ここで『ラザロの復活』について簡単に補足しておく。
『ラザロの復活』は、新約聖書の一書『ヨハネによる福音書』第11章に記述された、イエス=キリストが起こした奇蹟にまつわるエピソードである。
ラザロとイエスは大変親しくしていたが、やがて病となってしまう。
イエスが見舞いに訪れると、すでにラザロは亡くなっていた。
悲しみに暮れるイエスはラザロの墓の前に立ち「ラザロよ、出てきなさい」と語りかける。
すると、何と死んだはずのラザロが生き返ったのである。
一般にこの『ラザロの復活』は、キリストが人類全体の罪を贖罪し、そして復活する予兆として解釈されている。
つまり、ラスコーリニコフが殺人という罪を犯し、それを自白するきっかけとして『ラザロの復活』のエピソードが用いられているのである。
が、初読時にはどうしても分からない点があった。
ラスコーリニコフは自ら『ラザロの復活』を朗読するのではなく、ソーニャに朗読させるのである。
何故か。
『罪と罰』では、ラスコーリニコフとソーニャは常に対比して描かれている。
繰り返しになるが、ラスコーリニコフは世を救う為、他人を犠牲にし、ソーニャは家族を救う為、自己を犠牲にしている。
それでいて、この二人は同類なのである。
ラスコーリニコフは殺人という法律上・人道上の罪(crime)を犯し、ソーニャは売春という宗教上・道徳上の罪(sin)を犯している(※)
つまり、ラスコーリニコフはソーニャに朗読させる事で「お前も罪人ではないか?」と責めているのである(あるいは自己弁護している)。
ラスコーリニコフもまた、ドストエフスキーの小説に典型的な、極めて傲慢な人間である。
※誤解のないよう書いておく。イエスは民族や職業を問わず、全ての人類を救おうとして罪を背負い磔刑となった。
娼婦も例外ではない。ゆえに売春を罪とはしたものの、娼婦たちを愛し、彼女たちこそ真っ先に神の国に行けると説いた。
生きる為に娼婦となり、身体的にも精神的にも追い詰められ、救いのない中で、このイエスの言葉によってどれだけ多くの女性が救われたのか想像に難くない。
僕は無宗教かつ無神論者だが、宗教の本来の役割の一つは、このように人々の心の救済であろう。
これが権力と結びつくと碌な事にならないというのは歴史を見れば明らかである。
『罪と罰』はラスコーリニコフとソーニャ、二人の主人公の贖罪と魂の救済の物語である。
生きるということは本当に苦しい。
僕がこの小説を読んだのは重い病気になり、絶望の淵にいた時だった。
とはいえ、働かなくては食べていけないので、何とかバイトで食い繋ぐような状態。
普通の人にできる事が自分にはできず、劣等感、屈辱感、被害妄想に苛まされるような毎日。
いつしか世を憎み、人を憎み、「いつか見返してやる・・・」と、それだけが生きる支えだった。
それゆえラスコーリニコフに共感し、自らに重ね合わせてしまうところもあったのかもしれない。
幸い、自分にはそんな時でも手を差し伸べてくれる人がいた。
また自分には「あの人のように生きたい」と思わせる尊敬すべき恩師がいた。
その人たちのお陰で自分は道を誤る事なく、真っ当に生きてこられた。
さて、以上、長々と書いてしまったが、なぜ僕がソーニャに惚れたのか。
それはあまりの痛々しさ、健気さに対するある意味、同情に近いものもあったかもしれない。
しかし、ソーニャは自らがどんなに悲惨な状況に置かれようと、人を信じ、人を救おうとする。
強い女性である。
それは今思うと尊敬や崇拝に近いものだったように思う。
最後にラスコーリニコフはシベリアに流刑となったが、重要なのは、彼はこの時点で殺人については認めたものの、「一つの小さな罪悪は百の善行によって償われる」「選ばれた人間は世の為なら社会道徳を踏み外す権利を持つ」という考えまでは捨てていないということである。
ラスコーリニコフの本当の意味での贖罪と魂の救済は小説の最後の数ページで描かれる。
感動の場面である。
ここでは結末は書かないので、未読の方はぜひ読んで欲しい。
『罪と罰』は世界文学の最高峰の一つであり、そして僕にとってソーニャは永遠に憧れの女性である。
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